徳太郎のしたで御礼奉公という見習修業を終えた常造は、父の家業を受け継ぎ、明治四十二年に営業所を愛宕町から甲府桜町に移転した。彼は販売部門に力を注ぎはじめると共に、それまで手加工だけに頼っていた幼稚で少量生産の錺加工法を改良し、県下のトップをきって機械化に踏み切り、規格量産の体制を整えたのである。
そのことは、当時の手工芸的な錺業界にとって画期的な“産業革命”であった。業界の面々は彼の革新的な考えに驚き、常造の名を業界に強く焼きつけた。
■ 常造のデザイン計画
機械化によって量産される、破格で良質な高級指輪や帯留などの製品は、東京・関西方面を中心として、全国的に販売網を伸ばしていった。
しかし、量産すると、商品は画一化されてしまう。そこで常造は、商品にオリジナリティーを持たせるため、独自の販売戦略を進めていったのである。「保坂の製品はどうしてこんなに売れるのだろう?」と、人々は不思議がったと言われる。
後になって分かったことだが、その秘密は彼の巧みなデザイン計画にあった。ひとつの型は一店のみに契約し、商品にオリジナリティーを持たせる。この販売方法は見事に成功した。彼の考案した<婦人用の型抜き花彫り指輪>は、実によく売れたと言われる。
■ 満州への出張販売
こうして、経営と販売ルートの基礎を築いた常造は、著しく社業を発展させていった。やがて国内はもとより、満州の奉天・大連に店を出し、販路を伸ばした。
甲府の住人が満州土産に買って帰った指輪が、保坂貴金属の製品であったという、どこか現代のメイド・イン・ジャパンの外国土産を思わせる笑い話が伝えられたほど、製品の六〇%は満州で売られていた。現在でも当時の建物が奉天に残っている。
■ 受け継がれる経営精神
手工芸から大量生産へ、宝飾の命でもある質を落とさないデザイン戦略、販売ルートの国際化など、保坂常造の経常手腕は、明治という時代にありもがら時代を超えたものであった。彼の業績のどれひとつ取ってみても今日の企業イノベーションの元祖に匹敵するものがある。もちろん、現在業界のトップをきって活躍する保坂貴金属の礎は、常造の偉業にあるといっても過言ではない。
「百年の歴史に負けない質の高い製品をつくっていくこと、そして、時代を拓いていくためには、なんといっても独創性が必要なのです」と、三代目保坂常博氏(現会長)は言う。
先代か切り拓いた経営理念、その基本精神は時代が変わっても今日の経常者の心に受け継がれているのである。
■ 保坂の新しい顔
ところで老舗には歴史の中で培われてきた顔がある。しかし一方では、社会の環境に適応した顔もつくっていかなければならない。その老舗の新しい顔とは何だろう。
近年、四代目保坂常隆社長は業界のトップを切ってCI(コーポレート・アイデンティティ計画)を取り入れた。大正から使われてきたマークを、百周年を機に斬新なものに切り換えたのである。
「当時CIといっても埋解されなく、何十年と使われてきたマークを変えるのですから勇気がいりました」と常隆社長は語る。
元来、当社では宝飾の製造元としてはめずらしく、製品に自社のブランドマークを打ち続けてきた。
自社の製品への品質の自信と、責任によるものである。しかし、新しい市場を考えた場合、これからの時代に向けて“保坂の新しい顔”を創っていかなければならない、それがCIを導入した動機であるとも常隆社長は言う。
また、「きわだった個性、ホサカクオリティー」をモットーに、“オリジナル製品”を創り続けているのガ保坂貴金属の誇りでもある。そのデザインは、第十二回インターナショナル・パールデザインコンテスト「グランプリ」に入賞するなど国際的な評価も高い。
これからの社会は、国内外を問わず国際消費マーケットの時代だといわれている。たゆまね商品開発と、時代の一歩先をよんだ販売戦略による新市場の開拓。明治に産業革命を起こした保坂常造の企業イノベーションは、確実に今日の経営者によって受け継がれ、次の時代に向けて保坂貴金属の“新しい老舗の顔”がつくられようとしている。
|